深水 黎一郎『花窗玻璃 シャガールの黙示』講談社ノベルス 2009.9 読了。
(1)導入
『本格ミステリ-・ワールド2010』の「黄金本格」に選ばれる。今年は8冊しかなかった。3人の評者が長い鼎談の末に選んだ本作である。逆に言うと、他のミステリ本にはランキングされていない。
それはとりもなおさず、本書の評価が難しいからである。まず題名が読めない。「はなまど はり」であり、ステンドグラスを意味する。次に副題もわからない。「シャガールの黙示」である。本書の読み解きは、本格ミステリの歴史の中でも最も難しい部類に属すると思う。多くの罠が張られているからである。
若気の至り探偵と、その叔父さんである本物のうだつの上がらない刑事の会話が、作中作を取り巻く環境である。両者は前の作品から登場しているので、シリーズ物である。この会話が軽妙で楽しい。
作中作で、若者探偵がフランスに遊学しているときに出会った奇妙な出来事が記述される。ここに様々なトリックが仕掛けてある。今回は表記法という明らかな難題に挑戦である。すなわち、カタカナをすべて漢字に置き換える表記法である。衒学趣味であるが、ある必然性を持っているのも謎の1つである。例えば大聖堂=カチドラル、素描帳=スケッチブック、怪物形状雨桶=ガルグイユ、安妮=アンヌ、などという具合である。つまりフランス語も英語も、人名も場所名もすべて漢字で表記し、しかもルビを振る。
(2)作中から考察される細々した断片
本書の魅力の1つは、日本文化論の発露となっていることである。それが気に入らない場合もあるだろうが、しかし確かにおもしろいアイデアが多い。以下、感心した部分を列挙してみる。
・村上春樹はHaruki(アルキ)と表記するが、この単語はアルジェリア人のフランスへの移住者を指すので、アフリカ文学に分類されている(こともある)。93
・戦後、フランス文学は特権的な地位を占めてきた。主要作品はほとんど翻訳されてきたし、些末な作家まで詳細な研究が日本語で発表されている。フランス語の訳された日本文学は高く見積もっても、逆の10分の1。文化の高低を考えれば一方的輸入は当然となるが、『源氏物語』など日本にも伝統があるはず。103
・日本国民の知的レベルを下げることを目的に、当用漢字や常用漢字が制定された(かも)。比ゆ的表現、損失補てん、とか新聞や教科書で表記されていて、悲しくないか? 168
・白亜紀は白亞紀と書くべきである。172
・フリーメイソンは石工(マッソン)の共同体生活と関係ある。177
・過去に為政者(と御用学者)によって歪められてきた歴史を、公平に審判するのが後世の歴史家の使命。213
・東大寺の大仏にまつわる祟りの正体と、その終息の正体がみごとに暴かれる。254
このような文化論を聞くだけでも十分に楽しい作品である。
(3)子供の本格ミステリとして
さて、通常の手続きによって、ミステリとして眺める本書の魅力である。ランス大聖堂で不審な死が続けて2件おこる。その真相は何かという問い。若者探偵がずばりと推理を行い、一応の解決を迎える。伏線、トリック、動機、どれをとっても一級品である。特にあからさまに伏線が張られており、それが伏線であろうとはわかるのだが、いったいどのようにトリックとして終着させるのか、という手段に関しては皆目見当が付かないままであった。
この意味で、通常の本格ミステリとしても十分におもしろい。特に****を使った大トリックには魅せられた。すべてが平仄するようにできている。ここまででも十分にミステリ読みには応えられる内容になっている。
しかし同時にこの側面は割合にあっさりしているので、肩すかしをくらう読者も多い。漢字が多くて読みにくい、あまり驚きがない、現実性がない、伏線が明らかすぎ、など。わたくしもこうした感想を少し抱いていたので、本当にこれだけならば、あっさりしているなという感想を持った。
もう1つは、作者が読者に仕掛ける小さな企みも楽しかった。なぜすべてが漢字表記なのか。実は「読者=被害者」を実現しようとする愉快な試みであった。また、常にメタが意識されている。
しかし物語はここで終わらない。
(4)黙示の顕示
本書の難解さは、それ以上の解釈を許す点である。物語内部の表面的な真相は、以上で終わった。それだけでも十分に楽しい。しかしそれは子供の楽しみ方である。これは悪い意味ではなく、夢中になれるという戯れの楽しみであった。しかし副題が示すように、大人の楽しみも残っている。
それがシャガールの黙示である。この部分の難解さは、物語の内部ではっきりと語られることがないからである。また、シャガールの作った3枚のステンドグラスのモチーフが文字情報だけでは、うまく捉えられないからである。さらに、聖書やヨーロッパの知識が必要とされるため、なかなかそこまで考えが至らないからである。
160ページを参考にしながら、そしてネットでシャガールの絵を参考にしながら、この部分の謎解きを自分で考えなければいけない。単に読むという受動的な態度ではなく、調べ、繋げ、推すという積極的な態度が必要とされる。
キーワードはヤコブの梯子、イサクの犠牲、シャルル7世の戴冠(ジャンヌダルクの活躍)であろう。まずこれらの単語を熟知し、その上で物語に帰らないといけない。本書は1度読んだだけでは、うまく深層の真相がつかめないのだ。特にヤコブの梯子はシャガール自身のモチーフであり、本書を読んでからその絵を眼前に置くと、あまりの平仄に驚愕することになるのだ。
(5)終わりに
というような考察を重ねていくと、「子供の絵」であると思われてきたシャガールの作品が、実は綿密な企みを内包する本能の叫びであるという具合に、暗転と符合をもたらす構図が見えてくるのだ。作者も大胆にこう言っている。「私はいつも作品の重層的な構成に心惹かれる質ですが、」「つまり全てを読み終えた読者が夏卡爾の花窗玻璃の中に、本書全体の構図をもう1度発見することを作者は望んだのでした。」(『本格ミステリ-・ワールド2010』, 42)
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人を外見で、そして外見でのみ判断する柿柳です、こんばんは。
【な】さんいわく、
*****
たとえば、オレはジーパンで授業やってるけど、オレ基準では、これは「完全OK」。ネクタイなんて締めたことない。しかし、Tシャツで授業やったことはない。これはオレなりの「一線」。*
*****
*脚注1 典拠は自分で見つけてくれ。ヒントはテキスト庵。
ということらしいが、オレは反対だね。オレはジーパンでもTシャツでもまったく構わない。短パンでもよし。だっていまどき、日本って熱帯らしいじゃないの。その熱帯だか亜熱帯の地域で、いまどきネクタイをドレスコードにする方がおかしいよ?**
**脚注2 ・・・よ? なんてわざと語尾を上げる口調で、誰かに媚びてみました。
クールビスでネクタイ業界とかスーツ業界とかの人がひどい目に遭ったらしいけど、しかしこの形態は自然の理に反するのだ。高温多湿の日本で密閉型家屋がはやると、その敵対的反動によって、シックハウス症候群が激増するという具合にね。
わたくしはビジネスシーンで、ただちにネクタイとスーツを廃止すべきだと主張する。夏期に限定であるが。これさえ守れば、バカみたいな冷房過多をから逃れられるよ? バケツ一杯分の電気が節約できるよ? 必至にダムや電源基地を作らなくてもいいよ? これは偉い業界からしっかり法律に基づいて、罰則規定を作って施行してもらわないと、実効性がない。個々の服装の自由よりも、環境を守るという公儀が優先するよ? そこんとこよろしく。
とは言いつつ、今日も三つ揃いのスーツにブランドネクタイをして、張り切って授業に向かう柿柳であった。
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好きな漫画家は○○○やす○○の(特にくわっと見開くキャラの)柿柳です、こんばんは。さて、正解は誰だろうか。
米澤穂信『春季限定 いちごタルト事件』創元推理文庫、2004.12 読了。
2010.1で既に24刷になっていた。非常に売れているのだろう。小市民シリーズの第1弾。こちらを先に読むべきであった。誰が主役か、第3弾ではよくわからなかったので、小説の楽しみが減じていたのだ。
ライトノベルが得意な作者であるから、あくまでも文体はライト。しかしライトであるから、余計に人々の苦しさが明らかになってしまう。この小市民シリーズは2000年代における若者の典型的な思考だろうか。
かつて名探偵が存在した。名探偵という装置が存在した。常識人や普通人よりも抜きんでた推理力を持ち、快刀乱麻の活躍で真相を探り当ててしまう迷惑な存在。しかし痛快な存在。その名探偵装置は既に過去の幻想になってしまった。名探偵が活躍できたのは、金田一耕助までであろう。その後は、何らかの自覚がないと、このような非現実な存在を小説の中でさえも許すわけにはいかないのだ。
さて小市民シリーズである。優れた推理力を持ちながら、それを極力隠し、平穏無事に日常に埋もれたいと思う高校生男女の物語である。この設定が既に悲壮感漂う。優れた思考力をひけらかすことが、既に自分を傷つける悪徳になっているのだ。そこで徹底的に事件に巻き込まれないようにする。そこで一組の男女が、恋愛関係にも依存関係にも目を背けて、ただ単に互恵関係のみを目指す。つまり名探偵装置が働きそうになったら、その深みにはまらないように、相手をその時だけ利用して、元の平穏に戻ろうとする。
しかし、ああ、それなのに。優れた推理力はいつのまにか発揮されてしまうのだ。そして自己嫌悪に陥るのだ。これでは小市民への道は遠い。「そしていつか掴むんだ、あの小市民の星を」。
痛々しい若者の物語である。このような若者に興味がある人は読むべきであろう。もちろんいちごタルトへの愛、単なる粉ココアからとんでもない良質のココアを作る方法、盗まれた自転車に暗示される密かな企み、これらを知りたい人はすぐに本屋に走るべきであろう。
ちなみに小市民とはプチ・ブル(ジョア)である。イヌの名前ではない。
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服装どころか精神も乱れている柿柳です、こんばんは。
みんな品行方正だねえ。よっぽど自分に自信があるんだねえ。オレは精神の乱れに自信があるけど。ああ、精神汚染が。。。あんたバカぁ? に、逃げちゃだめだ。
深水黎一郎『五声のリチェルカーレ』創元推理文庫、2010.1 読了。
文庫書き下ろし。この作者はいま最も脂ののった本格推理作家。大学教員であろう。慶應義塾大学文学部卒業、ブルゴーニュ大学修士号、パリ大学DEA。DEAって何だか知らない。2007年に『君が犯人だ』で彗星のごとくデビュー、メフィスト賞をかっさらう。このデビュー作はむしろ技巧的であり、あまり感心しない層も存在した。
しかし1年後に『エコールド・パリ殺人事件』を発表。さらに『トスカの接吻』を立て続けに発表。そして今年度は『シャガールの黙示』という副題の本格推理小説を発表。2年連続して『本格ミステリー・ワールド』の黄金本格に認定される。これに認定されるのは並大抵のことではない。大衆的な別のランキングではあまり上位に入っていないが、むしろマニア受けするかもしれない。
その衒学的文体のせいであろうか。
しかしこの小説は違う。少年犯罪を扱っているので、徹頭徹尾、非常にわかりやすい文体である。いやむしろこちらの正確な日本語を紡げるという基本が基本としてあるのだ。まさに擬態である。そして本書のテーマは擬態である。少年が何か重大な犯罪を犯したらしい。だんだんとそれが明らかになってくる。昆虫好きの普通のいじめられ少年。その純粋なまでの不器用さが徐々に明らかになってくる。
擬態に失敗したら死がある。
五声のリチュルカーレとは何を暗示するのであろうか。本書も技巧的であるが、擬態として隠されているので、何が謎なのかがわからない、という点に最大の謎がある。
もう1つ、短編として収録された『シンリガクの実験』も楽しい。小学生による人心把握。他人を操ることの快感と絶望。小学生の真理がおく表されている。こちらもお勧めである。
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日本代表の試合を見た柿柳です、こんばんは。
いや、カーリングでもトランポリンでもなく、サッカー男子日本代表である。クリタさんの意見に大賛成である。珍しくリンクを貼ってみた。有名人にリンクして、自分のアクセスも増やそうという魂胆である。あ、でもこちらからリンクしたも、アクセスは増えないか。
クリタさんは、サッカーを実際にやったことがない人が多いから、選手をすぐに見下してしまうのではないか、と仮説を立てている。なるほどである。
ここではさらに別の仮説を加えてみよう。1つには、サッカーがあまりに国際的に広く行われているため、競争が激しく、様々なレベルのリーグが併存し、しかも最高峰リーグの情報が容易に全世界に伝達しているため。それゆえ、日本代表のレベルがどうであれ、常に最高峰と比べられる運命にある。たとえ日本代表が進化していても、世界は当然に進化している。いつまで経ってもギャップは埋まらないように見える。
この状態は特に野球とは違う。日本の野球は既に世界最高峰である。
もう1つは、サッカーの人気上昇が急激すぎたので、サッカーを批評する、楽しむ、という文化自体がまだまだ発展途上にあるため。特に企業広告という伝統的なコンセプトと、地域密着共同体型というサッカーのコンセプトは異なるため、まだまだ財政的にも心情的にも、支えるのが難しい。ファンの多くが若者なので、熟練した批評を出すのも難しいということだ。
この状態は、サッカーがこのまま努力を続けていて人気のある程度の存続がなされれば、自然に解消していく。つまりファンの円熟化である。
ま、とは言いつつ、今は日本女子サッカー代表の方がはるかにおもしろいな。何しろ既にベスト4に進んでいる。世界ランキングも6位なのだ。本気で国際大会で優勝できる可能性を秘めているのだ。そして何よりも岩淵君という若きスター候補がいるのだ。
というわけで、なでしこジャパンもよろしく。
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貫井徳郎『後悔と真実の色』幻冬舎、2009.10 読了。
ベストテン集計の終盤ギリギリに駆け込む出版物はなかなか難しい。見逃すことになるからだ。本書は「このミステリがすごい!」第28位、「本格ミステリベスト10」第9位、となっている。
デビュー作『慟哭』は衝撃的であった。もうずいぶん前である。その時も刑事物であった。しかしどんでん返しがあった。リアリズムの追求と、トリックの冴え。デビュー作は両者を融合させた傑作であった。
本書もまた刑事物である。かなりパワーアップしたトリックである。基本的にはフーダニットでよいだろう。しかし自分は、これを見逃してしまった。最初の条件を除外し忘れて、最初からこの人物が犯人である、と決め撃ったところ、それが当たってしまった。しかしそれは最初は排除されたはずであった。そこを忘れていたから、たまたま当たっても仕方ない。しかしその当て方は、連載中のトリックを使ったものである。
今回は警視庁捜査一係におけるチームの話。そこに所轄、機動捜査隊がからまってくる。この刑事の階層化が見事である。「踊る捜査線」などで、官僚と所轄という対立は有名になった。本書はそのような形ではなく、あくまでどちらも現場にこだわる刑事なのだが、そのこだわり方がまったく違うという点で特徴がある。
捜査一係の面々はどうしてここまでくせ者なのか。スマートなくせ者である。主人公が最たる者。名探偵という揶揄で語られるが、確かに鋭い。人間関係のなさも鋭い。そしてそれが致命的な欠陥になって、大いなる悲劇につながるのだが。その他も面々も非常にこだわりがある。表面上飄々としていても、こだわりがある。まさに男の中の世界。そう、この物語では、女はほとんど登場しないのだ。女刑事はゼロ。これも最近は珍しい。女が登場するのは、妻として、浮気相手として、のみ。徹頭徹尾、男にしか受けない物語であろう。実際、この作者に女性ファンがいるのだろうか?
本書の感想を一言にすれば、女は怖い、男はしつこい、というところだろうか。前の本と同じになってしまった。
見事な犯人の隠し方であった。しかし最初の条件を忘れてしまえば、逆に不自然な箇所は多くあるので、多くの箇所で犯人は推測されてしまうだろう。しかし本書のうまみはそこではない。刑事という特殊な職業の中で、いかに普遍的な男の嫉妬と無関心が描かれているか、という点にある。
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北村薫『街の灯』文春文庫、2006.5
北村薫『玻璃の天』文春文庫、2009.9 読了。
三部作、<ベッキーさん>シリーズ。第三作でようやく直木賞を取ったので、その記念としてシリーズ物を買い求めた。直木賞の方はまだ単行本なので買っていない。そしてその本がミステリとしても評価が高いので、まずはシリーズに慣れる必要があるなと、こちらを読了してみた。
ミステリ畑で最も文学部的な文章。そうなのである、本格ミステリを書く人はなぜか文学部出身が多くなく、法学部だったり、理工学部だったりする。やはり技巧的だからだろうか。その中で、早稲田出身の北村は貴重な存在。ど真ん中の文学趣味である。それゆえに、文学そのものに対する素養が深い。味わいがある。
このシリーズも過去を踏襲している。もともと覆面作家であったときから、女流作家と信じられていた文体である。若い女性を書かせれば、しかも素直で凛とした女性を書かせれば一級品である。その素直さと困難さを素直に出せる設定は何か。それが昭和初期の上流階級であった。
主人公は財閥社長のお嬢様。学習院とおぼしき女学校に通う。そこには華族も皇族もいて、けっして完全な格下ではないけれど格上でもない、という階層が存在する。その中で、運転手として別宮さんが登場する。この人物が謎である。通常ならば、お嬢様がワトソン役で、別宮さんがホームズ役であろう。しかし別宮さんは使用人である。あくまで出しゃばりはない。凛とした筋があるだけである。それゆえお嬢様はヒントをもらいつつ、自分で考え、行動する。
時は1933年、昭和8年。軍国主義の軍靴が声高に聞こえてくる。しかしお嬢様の世界は隔靴掻痒。のんびりと過ぎていく。しかしその中でも時代精神を感じさせないわけにはいかない。世間に反して自分の精神の発露を自由に許される社会が来るのだろうか。それが小さな苦悩である。
各冊は3つの短編から成り立っている。いずれも味わい深いが、逆に後日談などは極力廃しており、つまり余韻のある形で終わっている。完全に謎が収束する、という形にもなっていないようだ。それが直木賞受賞作ではもっとはっきりとした謎の解明で終わるのではないかと仄聞する。
この時代の銀座や軽井沢がよくわかる。ハイカラでモダンな時代が確かにあった。それが誰も止められないまま、暗黒の時代へと暗転する。
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飴村行『粘膜人間』角川ホラー文庫、2008.10
飴村行『粘膜蜥蜴』角川ホラー文庫、2009.8 読了。
普段はホラー小説など読まないが、後者が「このミステリーがすごい」第6位、「ミステリが読みたい!」(早川書房)第9位となっていたので、さっそく検索して読む。前者が第一作目となったので、世界観をわかるためには始めから読むべきだろうと思って。
前者は日本ホラー小説大賞長編賞に輝いている。つまりデビュー作であり、確かに荒削りだな。一言にすれば、エロ・グロ・ナンセンス。こんなテイスト、嫌いじゃないぞよ。最後まで何が粘膜人間なのか、よくわからなかったが。
前者ではカッパが準主人公。後者では蜥蜴人間が準主人公。どちらも主人公は昭和時代の軍国少年なのだが、このグロい生物たちが、縦横に駆け巡るのである。その会話が妙。前者で垣間見させていた諧謔趣味が、後者で爆発する。とにかく独特の文体が楽しい。
カッパのモモ太「おっかねぇっ! 鉄砲はおっかねぇっ! クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ!」(前者71)
蜥蜴人間の富蔵「だから『爬虫人』イコール『鉄棒を喉で曲げる』という発想は完全に間違っておりやす」(後者244)「ぼっちゃん、女はおっかねぇです。女なんて一皮剥けばみんな魔性のメス猫です。油断すると心を鷲摑みにされてメロメロにされやすよ。お気をつけ下せぇ」(後者270)
その他、前者ではグッチャネというのがおっかねぇし、後者ではナムールのジャングルがおっかねぇ。特に文学者を名乗っていながら、文学にモラルを求めている林真理子の選評がおっかねぇ。
などと書いてみたが、前者はやや退屈か。光る部分はもちろんあるが、十分ではない。それゆえの大賞ではない。しかし後者には感心した。三部構成が見事に成功しているし、何よりもホラー、ユーモア、に見せかけて、実は大事な一点を巧みに隠して、最終ページによって真相を明らかにする、というミステリ的手法を見事に取り入れているからである。しかも、それが真相だとすると、いままでガハハと笑っていたシーンが、すべて驚愕なホラーに変換されてしまうから、二度おいしい。
後者が高い評価を受けるのも頷ける。世界観を見るためには、まずデビュー作から読み、次にパワーアップした二作目に進むのが良い。ただくれぐれも、この小説を楽しもうという人はまず、エロ・グロ・ナンセンスに親和がないといけない。
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米澤穂信『秋季限定 栗きんとん事件』創元推理文庫、2009.3 読了。
「このミステリーがすごい」第11位、「本格ミステリベスト10」第10位。どちらの層からも等分に評価されている。そして「本格ミステリーワールド」にも俎上に載っている。同じ作者では『追想五断章』の方がはるかに上位に来ているが、それでも作家別では堂々の1位にカウントできるほどの活躍であった。
さて「小市民シリーズ」第3弾である。このシリーズは知らなかった。それゆえ、この本から読んではやはりダメだな。第1弾、第2弾をきちんと読んでからでないと、登場人物の造詣がよくわかっていなかった。過去の事件を振り返ることも多いので、やはり読む前に押さえておきたい。そうであれば、推理の方向性もよくわかったというものである。
本書の感想を一言にすれば、女は怖い、男はしつこい、というところだろうか。高校生の何気ない日常が描かれる。いわゆる日常の謎シリーズである。殺人事件は起こらない。さほど大きな傷害事件も起こらない。すべては日常のままに。1978年生まれという作者のことだから、まだまだ若い。ライトノベルにも分類されそうな筆運びである。
しかしその中に極めて悪質な悪意が込められる。他人を操ろうとする傲慢さである。日常に紛れながら、高校生でありながら、それは日本の縮図であり、のほほんとした日常は嘘で塗り込まれている。
長編の謎としてはなかなかおもしろい。新聞部の跳ね上がりが放火犯を捕まえようと紙面で推理。その記事を阻止しようと助けようと、様々な人物が暗躍する。いったい誰が犯人なのか。伏線は張られていないと思うので、犯人を当てるのは難しい。しかしその企みの過程はかなり氷解するようにできているので、別の謎の解明には膝を打つであろう。
それにしても、ケーキ類が満載の物語である。甘味が好きな人々は一読する意味があおる。栗きんとんがいったい何の意味があるのか、ぼんやりしているのでわからなかった。文庫書き下ろしは珍しい。第1弾はいちごタルト、第2弾はトロピカルカフェである。
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