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2011/02/24 (Thu) 電車の中で懸想する

電車の中で化粧した柿柳です、こんばんは。

いやいや、すまん、懸想でしたな。哲学者となっていたのだよ。


突然、論争となった電車の中で化粧する女に激怒するオヤジ伝説。あんまり長い修辞句は嫌われるよ。


むかしむかし、化粧とは秘められた空間で行う秘め事であった。なまめかしいな。

それがいつの頃からか、電車で化粧、という流行になってきた。これは何らかの革命なのだろうか。恥知らず女子が増えたのだろうか。それを注意したオヤジは万死に値するのだろうか。


わたくしの論点は、あまり行動様式は変わっていない、というものである。いずれも、日本においては、決定的に、「世間がいかに考えるか、その制約が個人を縛りまくる」という肝がある。ただし時代によって変わるのは、世間の範囲そのものである。

そのむかし、世の中がどんぱちやっていたころ、世間は血縁だけでなく地縁も意味したので、限りなく広い範囲にあった。家族や親戚のみならず、向こう三軒両隣は言うまでもなく、会社の同僚も電車で乗り合わせた人も、すべて世間であった。それゆえ、電車の中も、会社の中も、近所も、家も、ほぼすべて同じ行動様式が求められたのである。

しかし今は世間が徹底的に縮小した。地縁・血縁の衰退である。それゆえ、電車の中は世間ではもうないのだ。誰も知らないバラバラな空間に過ぎないのだ。そこでどのような行動をしようが、他人には関係ないではないか。群衆が集う電車の空間も、1人しかいない自室の姿見の前と、全く変わらないのである。なぜなら世間として指さしてくる他人の目がどちらも存在しないからだ。

ただし現在とて、世間はある。それはごくわずかな数人のゆるい友人・知人関係である。生徒時代は、この関係が決定的であり、ここで無視されたり、悪口を言われると、昔の世間から指さされて村八分になったように(実は二分は残っているのだが)、万死に値するのだ。もう生きていけないのだ。女子会、小学生・中学生・高校生(最近は大学生もだ)、という限定された空間では、この世間の論理が先鋭化された形で生き残っているのである。


という懸想を終えて、電車を降りた柿柳であった。

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